2026年2月19日木曜日

怒りと涙とその後は何が来るのか。

 本当に頭にきた時、人間は一体どう反応するのだろうか?

もし、健康であれば多分打ち上げ花火もいいとこだろう。でも、調子の悪い時はその代わりに滝のような涙が出てくる。後は体中が震えてしまう。そこに関しては怒り。爆発できない分、袋の中に強い力を押し込んで口を閉めたようなそれもそれなりの圧力と外へ向かおうとするもの。下手したらそれも爆発物のように破裂を待っているよう。

もしも、可能であれば負傷した腕に付いた拳で何かを強くぶん殴ってやりたい。そしてもっと酷いことになってしまって、再起不能にでもなってしまいたい。このクソ忌々しい怪我のせいでなんでこんなに身体的にも精神的にも追い詰められなくてはいけないのか。

周囲の人達には分からない辛さがそこにはある。まずは痛み。そして、悔しさ。そして苛立ち。数知れない眠れない夜、一日中部屋の天井だけを見つめて朝から夜まで過ごす。毎夜毎夜の悪夢の繰り返し。自分一人で出来ないことへのもどかしさ。挙げだしたらきりがない。毎日暇だから次は何かをしようかとかウキウキしながら考えてると思われている節があるが、実際は真逆だ。マジでうざい。

誰が楽しくて毎日、毎日こんな風に生きているってんだ。私の生活を交換したい人大大大募集!いつでも変わってやらあ。

精神が崩壊しそうだ。




あーあ。。。またかよ。

今日専門医のところに。この前のMRIの結果を見てもらうため。

Imagesを見せる。

よーく見る。″ああ、やっぱ断裂あるわ。水も少し溜まってる。 ″

そして、触診と動きを診てもらう。

やっぱりね。はいはい、で、今回は?どうやって治療していくのかな?

”切れたところをくっつけて、・・・・“

それって?(自分で言いたくない。)”はい、手術ね。“

開いた口が塞がらない。で、今回は治るのにどのくらい掛かるのか。

‘’ま、3-4か月はみといてよ。‘’


ガーーーーン。。。。


それからはいつがいいか、その後のフォローアップの予約。

結構ぼーーっとしてたのでどうやって車まで戻ったかあまり覚えていない。

え?今?

勿論、チョコレートに慰めてもらってる最中。


ご愁傷様、私。。。。





2026年2月18日水曜日

これまでのオーストラリア生活を支えたもの。勿論、それは。。。その1

 多分、皆さんが思っていることと同じだと思う。

そう、言語力。英語です。痛い話をするようだが、この国で差別をされる原因の一つにこの国のネイティブを使えないこと。そうです。言葉です。

私は英語をある程度勉強してからこの国に乗り込んできた。しかし、私が思っていたよりも敵はかなり手強かった。本当に簡単に太刀打ちできないと思ったのが最初の4週間だった。

この頭の上から大きな岩が落ちてきたような思いが如何に私の初心を打ち砕いたか?でも、そのショックで私は荷物をまとめて帰ろうとは思わなかった。

まず、とにかくリスニング力が必要だ。勿論、話す力だって必要だが、兎にも角にも相手の言っている事が解らなければ、何も始まらないのだ。

話せるかどうかはまずは話す相手が言っていることの意味が解らなくてはどうしようもない。英語学校に行き始めて、今までの自分の性格すら変えてしまう程何も出来なかった。毎日、毎日、辛かった。言葉というものがこんなにも自分の表現力を剝ぎ取って、別人に変えてしまうものなのかと。とにかくすごく焦った。

一緒に住んでいたのはエジプトからの移民の夫婦。奥さんは結構発音もキレイに英語を話せるお方。それに比べて旦那様はとてもエジプト寄りのアクセントの強い英語を話す。それでも、私の英語はそれ以下だ。とても苦労した。出来る限り自分の部屋に籠ってしまった。その事を二人はたくさん心配してくれた。本当に申し訳なかったが、あの時の二人の優しさが私をとにかく孤独に追い込んでしまった。(ごめんよー。)

結局一か月後にこのお家とはお別れし、友達が住んでいたお家へ移って、ここでは少しホッとしたのだ。なぜかって?中国人(北京出身)の夫婦だったのだが、奥さんも英語を学ぶためにわざわざ別の国出身の人と暮らしたかったのだ。彼女とは毎日たくさん話をした。そのおかげもあり、私は英語で人と話す事に随分と自信が持てるようになった。

英語学校での伸びはまだまだだったと思う。でも、場数を踏んだお陰で話をすることに臆病ではなくなってきた。

英語学校が終了して、バイトも見つかって、そこでも英語を使うようになった。その頃には英語学校時代の友達との付き合いがあったことで、もっとちゃんと英語を話せるネイティブの友達も出来てきた。

そこからは本当に楽しかった。勿論、それでも語学力はまだまだだったけど、自分らしさが少しづつ顔を出してきたのだ。性格的に内向的ではないのに今まで大きい態度が出来なかったのに、その傾向が英語上達によって変わってきたのだ。

その後、結局2つ目の仕事も長続きしなかったのでその後旅行することにし、約4か月の一人旅をした。長距離バス(コーチ)を使って、結局交通費だけで1000ドルでオーストラリア一周を達成した。勿論、30年前の事なので、物価は低かったお陰だが、自分の英語力のおかげでかなりのお得なチケットをゲットし、ここまで抑えられた訳。旅の間には本当にたくさんの人たちに出会えた。これは本当に私の人生における宝物だ。今でもほとんどの旅の景色や体験を目を瞑れば頭に思い浮かべる事が出来る。

もっと行きたかったところもあったけど、4か月ではその総てを叶えることは出来なかった。また、機会を見つけて行きたいな。今度はRV(キャンピングカー)を買って行きたいところ、滞在したいところに自分の気が済むまで居たい。

面白かったのが、帰国の2週間前に体中のに蕁麻疹が出来た。これって日本に帰りたくないから拒否反応で出来たのだ。帰った途端に治ったから。

もう、1度目の帰国の時にはまたオーストラリアに帰ってくるつもりでいたのは言うまでもない。

ここまで書いて何が私をそこまで駆り立てたのか。それは自分一人で総て計画して失敗して、それでもまた立ち上がり、挑戦するという事にハマってしまったから。

モンキーマイアという西オーストラリア州にある半島に行った時、出発が朝5時だったと思う。目覚まし時計を持っているのが部屋に私しかいなかった。でもその朝なぜかアラームが鳴らず、私たち3人は長距離バスに乗り遅れてしまった。

するとその中の1人が友達を叩き起こして4時間半の道のりを車で送ってもらうようにお願いしたのだ。それって絶対断られるよね?普通なら。なぜか彼は快く私たちを次のバスの出るジェラルトンまで送ってくれたのだ。

ジェラルトン着いた時、3人で彼にせめてガソリン代を払おうとしたのだけど、彼はカッコよく、”また会えた時にビール一杯奢ってくれたらいいよ。”と軽く言って、また400kmの距離を一人で運転して行ってしまったのだ。

かっこええ!!!!

これ以外にも色んな素敵な旅人にお世話になりオーストラリアに魅せられてしまったのだ。私はこんな人間関係が持てるこのオーストラリアという国で暮らして行きたいと思ってしまったのだ。

その後、日本には2年間帰国したのだが、その後は又学生として戻ってきて今に至るという事だ。また学生やってた頃の話はまたの機会に。




2025年12月20日土曜日

娘と父親

うちの娘はとっても独創的だ。

最初はなんか違う原因があるのかと思っていたが、多分、彼女は自分というものをしっかり持っているのだ。私よりってこと? 

自分があることは大事だと思う。結構舐めて見ていた自分に少し反省。

私も自分のしたいことを存分にしてきた。その中でも自分自身かなり責任をもって何事も行ってきたのも事実。はめだって外しただろうが。。。


私自身の成長過程を見て彼女の事は絶対に個人としても娘としても尊重して行きたい。


ただ、彼女の父親はそうではない。というのも、自分の中の確固とした子育て基盤があり、そのレールの中に彼女を無理やり押し込もうとしている。それって無理っしょ?

多分、父親本人もその事は重々承知なのに、それでもその固い頭が追いつくまでにまだ時間がかかりそうだ。

おいおい!ムリゲー過ぎるだろうよ。

甘いところにはとことん甘いくせに、こればっかりは自分のアイデアを乗っけてくる。

多分、娘とその父の間の戦いと葛藤はこれから当分続きそうだ。その狭間にいる私はレフェリーのようだが、一番いい結果を出すためにこれからもその間を取り持って行かねば。。。




2025年11月16日日曜日

結構いい暮らしをしているかもなあ。。。

 いつも悩みの垂れ流しばかりなので、少しは明るい話題でもしなけりゃ自分で読んでても嫌になってくる。

だから今日は違う話にしよう。

これまでのここでの生活、思っているよりいい生活をしてきたなと思う。

結構勿論渡豪してすぐはみなと同じくらい大変だったと思う。周りの友達から聞いた話も結構自分と変わらないような話だったから。

出だしはここに住みたいと思いつつも、どうすればいいのかあまり分からず、ただがむしゃらに走ってきた気がする。その間で、ここで勉強して就職先を探すと思って、役に立ちそうな勉強をしてきた。もちろん、その間にかなりの失敗を繰り返してきたが、熱意を買ってもらったのも事実。2個目のカレッジに通っている間にこちらの会社の事務の仕事をゲットした時にはすごくラッキーだった。そこは私の学校への時間も考慮してくれて、午後3時には上げてくれたり、その分、土曜日は一人で働くことも。

運がよかったことの一つは私のポスが6歳の時に移民してきて、移民の苦労を理解してくれる人だったから。

給料もあの時にしてはそれなりのものをもらっていた。それも週給で毎週金曜日に現金支給。嬉しくなりながら、スキップして駅に向かっていたのを思い出す。

そこもKが生まれて産休に入っている間に条件が変わり、残念ながら戻れず、でもこっちもKが6か月くらいで仕事に戻るつもりがなくなったので、良かったは良かったのだが。


その後、バイト的な仕事をいくつかして、二人の子供が小学校に上がってから仕事探しを本格的にし始めたのだが、なかなか8年のギャップは大きかった。バイトで食つなぐ日々が始まる。

でも、それなりにやってこられたのは今よりは物価が安かったから。

家のローンだってそんな沢山じゃなかったし、家自体がそこまで高くなっていなかったから買えて。じゃ、なけりゃあ今も賃貸でマンション暮らしだったことだろうに。

そうこうするうちに勉強してその勉強の資格によって職に有り付き、他のオージー達に紛れて仕事が出来ている訳だ。

収入的にも平均的な暮らしは出来ている。食べるのに困ることもなく、子供たち二人も大人になり、後は老後のために貯めるべきお金のことだけ考えていればやっていけるだろう。

まったく我慢していないといえばそうでもないけど、でも、出来る限り借金なくきているのだから文句言う必要はない。

恵まれているんだなと最近では思う。後は本調子になれば万々歳なだけ。この”だけ”が難しいのよね。

だからというか別に言い訳がましくするつもりはないが、この幸せの事を噛みしめながら早く回復してしまいたいわ。




2025年11月13日木曜日

つ、辛い。。。

 毎日がただ過ぎていく。

出かけるのはアポのため。ほとんど強制的に出かける。ついでに何かをしようとするが、やる気が全くない。

サイキに夜のお薬を追加してもらう。少しばかり落ち着いたか。でも、とにかく辛い。

こんな風に生きていていいのだろうか?

特に午前中ゾンビのように過ごし、夕方過ぎてお天道様が沈み始めたら、少しまともに動き出せる。

まるで日の光を避けるかのようだ。

かと言って夜のお薬を飲むと意外とすぐに撃沈。何のために毎日を過ごしているのかほとんど意味不明だ。

とにかく、次の手術まで無事にたどり着ければ、その後の事はまたその時に考えよう。

こんなに素敵な天候なのに自分には何の意味も持たないなんて。本当にもったいない。

ゆっくりどこかに行って気持ちのいい毎日を送りたいのだが、アポのためには毎週3日は拘束されているので、遠出も出来やしない。とはいえ、午前ゾンビにどれだけの事が出来るのかって話もあるし。




2025年11月8日土曜日

悪い予感はやはり当たる。

 今週は出だしから嫌な予感がしまくっていた。

そしたら、やっぱり起こるべきしててんこ盛りでそのオンパレード。

ま、一応そのおかげで遠出できたし、悪いことばかりではなかったかもしれないとこじつけによって少しでもいいほうに引き寄せられなくもないが、それでも〝ドツボ″であったには違いがない。どう見積もってもだ。

今もコンスタントに頭痛に悩まされていて、とにかく何が何でも何かしているように持って行っている。

今、一生懸命海辺に座っているというイメージを頭の中に植え付けているところ。(扇風機は強風に設定)

サイキに最速で予約を入れ、土台は固めた。

その割に涙は出るが、心は平静を保ち始めている。周りが焦ると意外にも本人は落ち着き払ってしまうというものか?

多分私の見えないところでみんながため息をついている姿が想像されてしまう。

何としてもこの週末はどこにも行かない。それだけを守っていれば、多分、たぶん大丈夫だろう。

見えないところに落ちている自分を誰かが見つけ出して救助してくれることを信じてじっとしておこう。そこだけはポジティブに。




怒りと涙とその後は何が来るのか。

 本当に頭にきた時、人間は一体どう反応するのだろうか? もし、健康であれば多分打ち上げ花火もいいとこだろう。でも、調子の悪い時はその代わりに滝のような涙が出てくる。後は体中が震えてしまう。そこに関しては怒り。爆発できない分、袋の中に強い力を押し込んで口を閉めたようなそれもそれなり...